素晴らしいレポート!

素晴らしいレポートが届きました!
諏訪さんの教室のときに、東京からお手伝いをしに来てくださった、長井さんです。ご自身も公教育の場で映像教育に携わっていらっしゃる立場から、うんと、いろいろ考えてくださいました。嬉しいです!ありがとうございます!



シンポジウムに参加して
                                                        長井 仁美


最後のディスカッションを聞き、公教育の場で映像教育を行うことの意義について改めて考えさせられました。(映画=映像という考えの下、映像教育と使わせていただきます)
私自身、公教育での映像教育に携わっていて、多くの問題を感じます。
?時間がない(子供の‘気づき‘を待つ時間の余裕がない)?お金が無い は全国のどこで映像教育を行なったとしても必ず出てくる問題でしょう。また、私の職場では、映像教育が義務化されているので?学校・教師から積極的な協力を得づらい という問題もあります。
そのような多くの問題をクリアするためにも、マニュアル化は仕方のないことだと思います。公教育という難しい条件の中で川崎・広岡さんが実践されていることは、学ぶべきところがほんとうに多くあります。

しかし、マニュアル化により子供たちの自由さを奪ってまで公教育で映像制作を行なわなければならない理由はなんなのでしょうか。
中江監督の「悪しきプロ」という指摘は、とても痛いところをつかれたという思いでした。確かに現在行われている公教育での映像教育は大人の真似事に近いです。
私が参加した年の映画制作ワークショップで、諏訪監督が子供たちに役割を決めさせなかった理由を「映画ごっこにしたくない」とおっしゃっていたことを改めて思い出しました。今の公教育で行なわれている映像教育のやり方で、子供たちは映像との幸せな出会いが出来るのでしょうか。

今日、公教育で映像制作を行なう場合、大義名分として使用される「メディアリテラシー」という言葉。私も、情報化社会のいま、重要な教育だと考えています。
しかしそれならば、「作る」よりも「見る」という学習が必要不可欠なのではないでしょうか。日本には、その「見る」という教育が欠けているように思います。日本では未だに「映像・映画」は「娯楽」というイメージが強く、受け入れられにくいのでしょうか。

そして新田さんがおっしゃったように、子供たちの自由さを守るために「作る」は「部活動」として行うほうが、いいのかもしれません。そちらのほうが、無理なく映画と教育が良い関係を築けるのでしょう。

しかし、公教育で映像制作を義務化して体験させる意味は本当に無いのでしょうか。
実際に小学校で子供たちと映像制作をしているといつも感じることがあります。
メディアリテラシー」と掲げてはいるけれど、実際の現場ではそんなことの優先順位はぐっと下がり、子供たちのちょっとした成長のほうがずっと大切なように感じます。
最初はふざけている子供たちも、グループの中での自分の責任を果たそうと少しずつ努力し始めます。おとなしかった子供が、映像という表現方法に触れ、だんだんと自分を出すことが出来るようになることが多いです。何より、子供たちが緊張しながらも新しく出会う表現方法を楽しんでいます。子供たちのそんな表情を見ていると、公教育で映像制作を行うことも意味があるのだと信じたくなります。


映像(映画)と教育が良い関係を築いていくためにも、私たちはまず、諏訪監督の言うとおり「映像を教える」ということはどういうことなのかを話し合っていかなければならないのでしょう。その上で、改めて公教育での映像制作の進め方を考え直していかなければなりません。
そして大方の学校や教師が持つ、映像(映画)への「ただの娯楽」というマイナスイメージを払拭するための努力が必要になるでしょう。そもそも映像制作と教育は別物ではなく、実は「映像制作は人間の教育につながっている」ということを先生に理解してもらわなければ映像教育の発展はありません。

日頃、職場で感じていた混乱をシンポジウムを聞いたことでさらに混乱はしてしまいましたが、こうやってレポートにしたことで頭の中を整理することができました。そしてこれからの課題も明確になりました。

また、各自の行なっていることのPRではなく、全員が真剣に映像の未来を考えて意見をぶつけていく今回のシンポジウムはとても刺激的で勉強になりました。今回のような場が定期的に開催されるべきだと思います。また私も積極的に、子供と映像(映画)が好きな人間の一人として、子供たちと映像(映画)が幸せに出会ってもらえるように頑張りたいです。